132.「十牛訓 第十 入鄽垂手」★十牛訓シリーズ完了

 今回は、「十牛訓 第十 入鄽垂手」 です。

 十牛図も第十番目(最後)になりました。

 「十牛図の話は、終始一貫、人間としての正しい発心(ほっしん)――「ああなりたい、こうなりたい」というその表現を暗示したもので、第八図までが、自分のお願い。九図と十図が他人(ひと)のお願い。もっと現代語を使えば、第八図までは世の中の人に役にたつための自分をつくる用意のための修行で、九、十図にいたって初めて利他(りた)、他人(ひと)のために生きる命ができる。」と天風先生は、おっしゃています。

 また、「あるがまま」というのは、自我の偏見、執着から離脱して、本然の自性がはっきりと煥発されたものが「あるがまま」」と言われます。

 世のため、人のためを考え、「あるがまま」に生きることが大切です。

 ●長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

・色紙表面

「十牛第十 入鄽垂手之頌辞

露胸跣足入塵 来抹士塗灰笑 満顋不用神仙 真秘訣直教 枯本放花開

一千九百六十六年冬日 天風」

 

・色紙裏面

「註

胸を露はし足を跣にして 店に入り来たる抹土塗灰 笑い顋(あご)に満つ 神仙は真 秘の訣を用いず直ちに 教へて枯木に花を放 って開かしむ 花押」

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

 さて、第十番目、これでおわりだ。

第十番目は、布袋様が立ってる。「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」というんですがね。

「身をおもう身をばこころぞ苦しむる あるに任せてあるぞあるべき」

布袋和尚は、非常に度量の大きかった人で、人がほめようと、くさそうと、気持ちのなかに何にも感じないで、しょっちゅうニコニコ笑ってた人だっていうんだよ。だから、よくニコニコ笑ってるのを布袋さんのようだと言うでしょう。

「入鄽(にってん)」の「鄽(てん)」というのは「店」と禅の坊さんは解釈しています。私はそれよりも、「鄽(てん)」を人の集まっている「部落」と言いたいんだ。

第十図は、心身統一法でいうと、霊性生活の実行、言いかえると、常に誠と愛でひたすらに、人の世のためになることを言ったり、行って、実際に人生を生きている人の姿だと、こい言っていい。終始一貫、人間としての正しい境涯を生きている人のことを布袋と言うと思えばいい

要するに、十牛図の話は、終始一貫、人間としての正しい発心(ほっしん)――「ああなりたい、こうなりたい」というその表現を暗示したもので、第八図までが、自分のお願い。九図と十図が他人(ひと)のお願い。もっと現代語を使えば、第八図までは世の中の人に役にたつための自分をつくる用意のための修行で、九、十図にいたって初めて利他(りた)、他人(ひと)のために生きる命ができると、こういうわけです。

これを正当に解釈すると、まず最初に自己完成の修養に努力して、その行(ぎょう)をつんでのち、今度は利他行、人の世のためにつくし行をつむ。これが本当の修行の目的だと。

 

わかりやすく言うと、我々が修行するのも、学問するのも、仕事をするのも、商売をするのも、金を儲けるのも、ことごとく衆生済度(しゅじょうさいど)のため、人の世の幸福を向上しようがため。すなわち、自己のためではなく、他人のため、じつにこの私どもが人間として生きるところの世界のためだ。」(「盛大なる人生」第五章 大事貫徹 より)