160.「残心」

 天風先生「哲人哲語」に、「残心偈」p87があります。消極的な観念や思考が心に生じた場合の対応方法を教えてくれています。その場合、悶えや苦悩を感じるのでなく、ただ一途にその反対の積極的思考のみを、心の中に持ち込むようする。なぜなら、「光りの前に闇はない」からです。

即座に積極的思考を心に持ち込む第一の秘訣は、「現象の背後にはいかなる場合に必ず目に見える実在がある!」と峻厳な宇宙真理を想起することです。そうすれば、すべての消極的なる思考や観念というものは、真我ではないいわゆる小我が、相対的考察から間違って書いている出たらめな絵であると刹那に直感でき、期せずして極めて容易に、積極的思考を「心」に持ち込むことができます。

 

・以下、「哲人哲語 残心偈」より

 「残心」という言葉は、真剣抜刀術の用語で、簡約すれば「終始心構えに油断あるべからず」という、抜刀法術練功行の際、最初から最後まで、一貫せる心構えを忘るる勿(なか)れとゆう戒慎の言葉なので、昔の格言に「終わりを慎むこと初めの如くあるべし」というのと、その意味両々融通しているのであります。

  しかして、修練会を履修した会員の中で、折角あの喜びの連続の間に味得した真理の醍醐味で、期せずして磨き上げられた心境を、ヒョイと気付いてみると、いつしかそれに曇りができて、統一法の根本要諦である精神生活の理想的心情である三勿三行を背反したり、その他充分悟り切っている筈(はず)なのに、何事ぞ心の中に消極的の思考や観念が、昔ほどではないとしても、とにかく多少なりとも湧いたように発生しているのを発見する人が、相当事実において多いと思います。

 そして、そういう事実を、自分の心の中に発見すると、なまじい真理を知っているだけに、真理を知らない人の感じない特異の悶えや苦悩を感じ、あまりにも自分の不甲斐なさに、地団太を踏みたい口惜(くや)しさを感じるのも必然であろうと信じます。

 しかし、これは要するに畢竟前述の「残心」という戒慎が、その心構えの中に欠如していたからの所因から招来されたものなのであります。

 

 「アッ自分はまた心の持ち方を誤った」と自覚したら、その自覚を価値高く尊く考えることです。そして、その場合の自分の「心」に適法の処置を施すことこそ、最も賢明な自己統御方なのであります。

 万一その心の中に、消極的の観念や、または思想が、たまたま発生したことを直感したら、即座に、あの修練会の真理瞑想行の時、幾度か諸君の耳に入ったであろう、「光りの前に闇はない」という言葉を想起せよであります。

 というのは、心が消極的になった時、更にそれを悶えたり悩んだりすると、それはちょうど、闇を照らす光りを自分から好んで消すのと等しい結果でしかない。

 

 諸君は真理瞑想行の中で、思考作用と生命との関係を垂迹(すいじゃく)された時、こういう言葉を、私から聴いた記憶があるでしょう。即ち「消極的観念や、思考が、その心に生じたならば、ただ一途にその反対の積極的思考のみを、心の中に持ち込むよう勉むべし」・・ということなのです。

 要するに、その時、そうして心の中に持ち込まれた積極的思考こそ、闇を消す「光」であるからです。

 

 そしてそういう場合に、即座に積極的思考を心に持ち込む第一の秘訣は、これまた真理瞑想行の時、毎日いろいろの違った言葉で聴かされたあの「現象の背後にはいかなる場合に必ず目に見える実在がある!」と峻厳な宇宙真理を想起することなのであります。さすれば、自然と、すべての消極的なる思考や観念というものは、真我ではないいわゆる小我が、相対的考察から間違って書いている出たらめな絵であると刹那に直感でき、期せずして極めて容易に、積極的思考を「心」に持ち込むことができるのであります。