49.「何のその 岩をも通す 桑の弓」

 「何のその岩をも通す桑の弓」は、赤穂藩士・大高源吾が作ったそうです。

 

 大高源吾忠雄は、20石5人扶持の赤穂藩士として金奉行・膳番元方・腰元方などを歴任。江戸中期の俳人・水間沾徳(みずませんとく)に弟子入りして俳諧を学び、子葉(しよう)という雅号で俳諧集『二ツの竹』を編著。元禄15年(1702年)10月、主君浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の仇吉良上野介義央を討つため江戸へ下り、町人脇屋新兵衛を名乗ります。俳人のよしみで吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門、12月14日に吉良屋敷で茶会が開かれるとの情報を得て、討ち入りの日が決まったとされています。

 

「何のその岩をも通す桑の弓」の句は、赤穂藩士が集まった両国のうどん屋での作とされています。桑の弓は、誕生した男子の出世を願う儀式用の弓で、矢は蓬(よもぎ)で作ります。か細い蓬の矢でも一念をもって射れば岩をも通すという意味で、「桑弧蓬矢(そうこほうし)」は男児が志を立てるたとえとされています。「新泉岳寺」境内に建てられた句碑の裏には「大高源吾」と刻まれています。気力を込めて一心不乱に精進すれば、目的が達成できるという「何のその岩をも通す桑の弓」は心の底にどしりと響くものがあります。(webより)