服部嘉夫先生の解説を掲載致します。

・服部嘉夫先生のご講演をyoutubeで見る事ができます。

2018年2月25日さいたまの集い 日曜行修会

「心の効率的な使い方」

https://www.tempukai-saitama.org/活動報告/

2017年10月22日埼玉の集い日曜行修会

 「感情の明朗化」

https://www.tempukai-saitama.org/活動報告/

2017年5月28日埼玉の集い日曜行修会

 「心の強化と人間形成」

https://www.tempukai-saitama.org/活動報告/

「官能の啓発を学ぶ」木曜行修会 服部嘉夫 2019214

私達人間は外界に生きています。外界からの刺激を感受する時正しく認識しなければなりません。

何処で感受するかと言うと、受容器官である五官感覚即ち、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚で行われています。その他、内蔵諸器官や筋肉等にもそれぞれ特異な感覚作用があり、必要に応じ神経系統を通じて心に伝えています。例えば、胃の空腹感、筋力や内蔵の痛感覚、その他各器官の苦痛感、不快感等です。

 人間として、正しく活きるには、感覚器官を正確にはたらかせるための訓練が必要です。

(1)聴覚の訓練法

 秒針の音がする置時計を利用して、聴覚の訓練を行います。秒針の音を耳から徐々に離して行き、完全に聞こえなくなる迄聞き入ります。何回も訓練しますと、聴覚は次第に鋭敏になります。天風先生は、インド修行中「天の声、地の声を聴け」と指導されました。ごうごうたる滝の(そば)で瞑想している時、微かに小鳥のさえずりが聞えるようになったと申していました。

 遂には蟻や地虫の這う音が聞えたと云われています。

 禅では、線香の灰の落ちる音を聞けと云われています。

(2)触覚の訓練法

 段階的に訓練して行きます。

 最初は目隠しをして、他の者が用意した任意の品物を手探りで触れ、その品が何か当てる訓練です。

 次に、黒の碁石10個の中に12個白石を混ぜておいて触覚で白石をあてる訓練です。

 更には、色の色紙を目隠しで、触覚で何色かを当てる練習、麻雀牌を指先で当てる盲牌も触覚訓練になります。

(3)視覚の訓練法

 訓練者を後を向かせ、其の前に品物を10ケ並べます。

用意が出来たら、「よしっ」と云って、訓練者を前に向け数秒間10ケの品物を見せ記憶させた後、後を向かせて、その品物を云わせます。天風会の無我一念法の訓練をしていると、潜在意識の中にプリントさせるので、当る確率は大いようです。

 高齢者運転免許証の再交付の試験に「4つの品物を画いた一枚の用紙を数秒ごとに4枚見せ、他のテストを行った後で、その16の品物を書き上げる問題がありました。これはボケ防止の訓練にもなります。

 天風会の「ひとりマッサージ」の眼球の運動に、眼玉を左右に動かす運動があります、左後方にどこまで視野出来るか。顔を動かさずに、眼で近くできる周辺視の範囲を調べます。周辺の気配を認知するためにも必要です。

 天風先生は、よく展覧会に行かれ、気に入った絵画があるとその前で足を止め、数秒間ご覧になり、ご帰宅後、ご覧になった画を寸分違いない絵を描かれたと云われています。

 心身統一法の講習会で精神使用法の時、心が事象(物)にとらわれのは悪い心の使い方で、逆に物(絵)が心に入ってくる状態が素晴らしい心の使い方で、即ち精神統一の状態です。

 五官の内、味覚、臭覚は特別に訓練しなくても、常に有意注意力を行えば特別な修練をしなくても、感覚を維持することは出来ます。

 五官感覚が研ぎ磨かれて、明瞭な意識で対象を明確に把握した時の心のはたらきを精神統一と云います。

 精神統一されるとありのままの相が素直に心に(うつ)ります。

「心に塵を止めざれば、森羅万象自から見ゆ」と言われます。

 精神が統一されると五官以外の第六感である超能力Telepthyが発現します。

 天風先生は、「テレパシーは神秘的ではなく、人間誰しもが有する能力である」と申されます。

 

 安定打坐法を修得し、訓練的開発訓練を行えばテレパシー能力が身に付いてきます。


 

「人生思考のままに」  木曜行修会  服部嘉夫

 

                          2018927

 

この演題は「思考は人生を左右する」と同様と思います。

 

不可思議な縁でこの世に生まれ、一度しかない人生を健康で幸福でありたいと誰もが願うものです。

 

しかし、世間では 病んでいる人や不運の人々を多く見掛けます。

 

福沢諭吉は「天は自から助すくる者を助く」と云われています。

 

天風先生は「自分の責任者は自分である」と申されます。

 

世の中には人生を厳格に支配している法則である「因果の法則」があります。 「蒔かぬ種ははえぬ」と云う事です。原因があるから結果があり、結果と原因は繋がっているのです。

 

私達人間は宇宙の根源主体である宇宙霊より生じたものです。天風先生は、 「宇宙霊は創造しようとする意志を実現する働きを満々ている霊智ある生命体である」と云われます。宇宙霊は自然的能動性(natural activity)をもつ創造的活動体であります。

 

宇宙霊の意図(気持)は何かと云うと創造活動と進化・向上です。宇宙霊は 進化・向上させるために新陳代謝(metabolism)のはたらきをとっています。

 

宇宙霊は一切の現象の背後にあって、新陳代謝の手段をもって、一切の現象を支配する二つの作用があります。その一つは、一つのものを造り上げてゆく、 結合と建設の働きであり、二つは元のエネルギーに戻す分解と還元の働きです。

 

人間で云うと、誕生して 幼年・青年期は、結合と建設で(しょう)のはたらきと云い、壮年になり老化し死ぬのは(めつ)のはたらき(分解と還元)です。このように生滅の二つの作用が相まって、万物の一切は公平により良く進化・向上が実現化されて行くのです。

 

根源の大生命である宇宙霊の分派・分流である個生命の人間の主宰者は心であります。「人生は心一つの置きどころ」と 天風先生は申されます。その心の働きの中で一番人間らしい心の働きは思考です。「人間は考える葦である」と云われます。思考は宇宙霊と通じています。私達の思考の状態で宇宙霊の働きでどのようにも受けることが出来るのです。

 

人間の心で行う思い方、考え方が人生の一切を良くもし、悪くもすると云うのが人間支配の根本原則であると天風先生は申されます。

 

私達が「正しい心、勇気ある心、明るい心、朗らかな心」と云う積極的思考を持てば、宇宙霊の結合と建設の働きが私達の生命にどんどん流れ込んできます。逆に怒り、怖れ、悲しみ等 消極的思考をすれば、宇宙霊の働きである分解と還元の働きが私達の生命に入って来ます。

 

人間はこの世に病を患うために来たのではなく、又 不幸になるために生れて来たのではありません。私達は活きている限りは積極的思考で宇宙霊の結合と建設の働きをぐんぐん導入して行きましょう。それには積極観念養成法の 実践実行に努めましょう。

 


 

「人間の欲望とは」  木曜行修会  服部嘉夫

 

                          2018823

 

「あゝそうだ!!吾が生命は宇宙霊の生命と通じて居る・・・」(大偈の辞)と人間は宇宙霊の分派・分流であると天風先生は断言します。

 

宇宙霊のもつはたらきは巨大な力と計り知れざる叡智をもって法則性をもって、絶妙な創造活動を行い、一切を進化・向上の方向へと押し進め、万物を調和あらしめようとするものです。

 

宇宙霊と人間は同根ですので、人間も創造活動する営みをすることが人間本来の面目であり、人間の使命です(統一箴言)。

 

人間は、さまざまな行動によって、価値高い人生を建設しようとするのが究極の目的です。人間がその行動を起すには、背後に動機があります。どんな動機かと云うと本能的欲望です。 

 

本能的欲望は4つあります。

 

1)食欲 自己自身を維持するための自己保存的欲望

 

2)性欲 性欲は悪いものでなく、種族保存的欲望で大切なもの

 

3)睡眠欲 これも自己保存的欲望で、刑罰の一つに眠むらさない罰が

 

あるくらい大切なものです。

 

4)集団欲 動物は()れをなしますが、人間も集団、グループを作る癖が

 

あります。これは社会的欲望です。

 

 その他、人間は進化した生物ですので、社会の中で生きているので、更に人間的欲望があります。それは、物欲と名誉欲です。

 

 人の世のために役だつための欲望は焔のように大いに燃やさねばなりません。人間らしい欲望を希望と云います。希望は素敵なことであり、人間的現象ですが個人的色彩が強いものです。しかし個人のやりとげたい希望であっても、それが達された時、人類の繁栄や幸福に多いに貢献するものであれば、それを理想と云います。理想という時には社会性を濃くします。

 

 理想は人間の霊性心から出る人間を進化向上させようとする働きです。恒に高潔なる理想を心に抱くことに努めよう。(理想の誦句)

 


 

「私の履歴書」  木曜行修会  服部嘉夫

 

                          2018712

 

 

 

昭和 8(1933) 78 東京神田東紺屋町で生れる

 

昭和15(1940) 4月  神田駅前 今川尋常小学校 入学

 

 小学校 3年・4年の担任 柳一夫 先生(後に第一東京市立中学校の教師)

 

 小学校 5年・6年の担任 今井武志 先生

 

昭和19(1944) 828日 今川国民小学校として埼玉県南埼玉郡(久喜市)

 

 菖蒲町吉祥院に学童集団疎開

 

昭和20(1945) 終戦なるも翌年3月迄 吉祥院に滞在

 

昭和21(1946) 4月 第一東京市立中学校(都立九段高校)入学

 

 都立九段高校 2年・3年の担任 田中四郎 先生(後に私達夫婦の媒酌人)

 

昭和27(1952) 3月 都立九段高校卒業

 

 一年間国立国会図書館に大学受験勉強のため通う。

 

昭和28(1953) 4月 成蹊大学政治経済学部 入学

 

昭和32(1957) 3月 成蹊大学政治経済学部 卒業

 

昭和32(1957) 4月 東京神田金物問屋㈱東京マルシン 入社

 

昭和33(1958) 3月 ㈱東京マルシン 退社

 

昭和33(1958) 4月 ㈲服部金物店 入社

 

昭和34(1959) 128日 妻 喜美子と結婚

 

昭和36(1961) 316日 長男 真久 誕生

 

昭和36(1961) 11月 天風会 入会

 

昭和38(1963) 65日 次男 恭弘 誕生

 

昭和40(1965) 8月 夏期修練会 班長 任命

 

昭和40(1965) 9月 さきがけグループ 結成

 

昭和41(1966) 3月 ㈲服部金物店 専務取締役 就任

 

昭和44(1969) 8月 夏期修練会 輔導補 任命 翌年輔導になる

 

昭和45(1970) 4月 氣の研究会 理事就任

 

昭和46(1971) 4月 成蹊大学合氣道部 監督就任

 

昭和47(1972) 8月 夏期修練会 主任輔導 拝命

 

昭和48(1973) 2月 ㈲服部金物店 代表取締役 就任

 

昭和50(1975) 3月 の研究会 理事辞任

 

昭和50(1975) 3月 成蹊大学合氣道部 監督退任

 

昭和50(1975) 4月 蹊氣会(成蹊大学合氣道部OB会)顧問就任

 

昭和54(1979) 218日 ()天風会 常議員就任

 

昭和55(1980) 1130日 ()天風会 講師 拝命

 

平成元年(1989)4月 東京中央卸市場 築地市場 関連事業者組合 組合長就任

 

平成3(1991)101日 東京都都知事賞 受賞(農林水産事業に貢献)

 

平成4(1992) 5 ()天風会 理事 就任

 

平成6(1994) 4月 築地商業協同組合 副理事長 就任

 

平成14(2002) 5 ()天風会 理事 退任

 

平成17(2005) 6月 ㈲服部金物店 代表取締役 退任し会長となる

 

          長男 真久が代表取締役に就任

 

平成18(2006) 3月 築地商業協同組合 副理事長 退任

 

平成18(2006) 5月 公益財団法人 天風会 理事就任

 

平成21(2009) 220日 妻 喜美子 逝去

 

平成28(2016) 6月 公益財団法人 天風会 理事 定年で退任

 

平成28(2016) 6月 公益財団法人 天風会 顧問 就任

 

               現在に至る

 

 

 


 

 

How to say よりもHow to do をとは?」 木曜行修会 服部嘉夫

                          2018628

 

天風会でこの言葉を聞くのは、心身統一法概論の時です。

命の本来の相は、「心身一如」であり、兎角私達は日常生活の中で唯物論的になり、身体一辺倒な考え方になったり、又は唯心論的に心のみの考え方をする人がいます。心と身体は生まれながらに一つのもの(一如)であり、心身は統一しなくてはなりません。

そのような事を云うのは易しい事ですが、然らば心身を統一する実際方法を具体的に教える事は困難な事です。それを科学的にいとも簡単に教えるのが天風会のユニークとすることです。

知っていることゝ、出来ることは違います。歌手の植木等さんが「分っちゃいるけど止められね・・・」と歌っています。天風教義は実践道です。教えを聞いて知っただけでは効果はでません。教えを実行して「あゝそうなんだ」と自覚することが大切です。そこで私は関連して「理解と自覚」について述べることにします。

理解(comprehension)は自己の知識としてとり入れる理性的心の働きであり、批判をする余地があります。理屈は判ったが俺はそう思わないと否定的な態度をとることができます。理性で受け止めると「目ざるで水を(すく)う」と同じで、残るものは何もなく、自己革新はありません。

道を尋ねても、自から歩き出さねば目的地に到達できません。実践、実行が大切です。実践へと駆り立てる意志を発動させるのは、精神的感動を伴う自覚(response)であります。自覚は瞬間刹那魂を揺さぶられるような感動に浸り、涙が滂沱(ぼうだ)として流れるものです。天風先生は天風教義を理解に止めず、自覚しなくてはいけないと当初の機関紙を「自覚」(現在のしるべ)と命名しました。

天風教義を実践実行し、自覚すると、その人を奮起させ、情熱を沸き立たせ行動に駆り立て、リアリストにさせます。

自覚的受け取り方をするには、明瞭な意識で、こだわりのない素直な気持、いわゆる安定打坐の境地、即ち本心で受けとめなければなりません。天風先生は「俺の話を聞く時はノートをとるな!」と厳しく云われました。ノートをとることは理性的理解の段階で止まるからです。

天風会第四代会長 杉山彦一先生は、常々「やった者とやらない者では差が付かぬ筈はない」と云われました。

道元は次のように申しています。「吾れ正機に恵まれ正師に巡り合い正法を聴く。今生の幸なり。この上は正修して正証するのみなり。修せざれば、証せられず。修証一如なり」と。

 

修行に当っては、天風先生は厳しく申されます。「天風教義は是を修行として行ったのでは、およそ第二義となる。只一念それを生活行事として行う時、完全に第一義的のものとなる。」(叡智のひびき箴言10 天風教義は日常生活道です。日常生活に於いて天風教義を実践することに心掛けましょう。


「信念とは」 木曜行修会  服部嘉夫

                          2018614

 

私は昭和36(1961) 11月病が縁で天風会に入会しました。

入会2回目の講習会で、天風先生より潜在意識を浄化して、心を積極化する方法として、観念要素更改法を教えて下さいました。

夜の寝ぎわ、鏡に自分の顔を写し、「お前、信念が強くなる!」と云えと教えを受けました。当時の私には「信念」と云うものが分かりませんでした。しかし天風先生は、今「信念」がどうゆうものか分からなくても、「信念強くなる」と云えと仰られました。

その頃天風先生は警察大学校の講師をされていました。ある時から天風先生はご多用になり、そのお役目を杉山彦一先生(後の第4代会長)に託することになり、ご一緒に車で警察大学校へ向う車内で、杉山先生が突然天風先生に「人間は何んのために修行するのですか」とお尋ねになりました。すると天風先生は即座に「信念の確立だ」と一喝されたと伺っています。

信念とは堅く信じて疑わない心のことです。信念が強ければ、何事も成就達成することが出来るのです。過去に多くの先輩がおられます。町の自転車の主人から世界のナショナルになった松下幸之助さん。少し昔には、伊勢鳥羽の海で真珠貝の養殖に成功した、世界の真珠王 御木本幸吉翁も信念の人でした。

信念は、念願達成の原動力です。ビジネス関係の書物の表紙には「信念に燃えよ!然らば汝は成功者たらん」と良く書かれています。先人覚者は信念について次のように述べています。

(1) ヘブライのソロモン 「人の値打ちは地位でもなければ

宝物でもない、人の本当の値打は信念の二文字である。」

(2) 釈迦 「信せざれば救うあたわず、縁なき衆生は度し難し」

(3) イエスキリスト 「先ず信ぜよ! さすればそなたは救われる」

(4) マホメット 「疑って迷って真理から遠ざかる者よりも、

信じて(あざむ)かれる者、汝は幸いなり」

(5) 孔子 「学は知るにあり、知って而して後行うにあり、

行うに信なくば能わず、信は万事のもと」

(6) 青い鳥のメーテルリンク 「できるだけ究めなさい。

でも分からないことは、この世に多いんだから、

そりゃもう信ずるよりはか仕方がないじゃないか」

 科学の進歩は疑惑から始まり、研究を重ねて立証し、法則を見い出すことにより進歩してきたと云われます。科学は 1+12 でないと、いけないのですが、世の中には 1+13 となる場合があります。その場合疑っていてばかりいたら、この世の中に生きていられません。科学は疑うことにより発達すると云われますが、それは誤りかも知れません。科学は万能の学問でないと云うことです。

 宇宙飛行士の野口惣一さんが云われました。「人生は深く、宇宙は広い、未知なるものと遭遇します。」と。未知の世界は分からないものゝ方が多いと云う事実がお分りでしょう。

 私達が夜寝る時、明日の朝になったら目が覚めることを信じるから寝られるのです。もし明日の朝になっても目が開かないと思ったら恐くて寝られないでしょう。私達が飛行機に乗るにも、この飛行機は事故を起さないと信じるから乗れるのです。これらは無意()的信念です。

 仕事を成就達成させようと思った時は有意()的信念を自立的にもたねばなりません。希望・目的・理想の達成には疑いのない有意信念が必要です。有意信念は相対的信念ですが、有意信念の積み重ねが絶対信念になるのです。

 絶対信念は、頭から疑ぐらない肯定と否定を超えた次元における大確信であります。江戸っ子は「旨いの旨くないのって、本当に旨い」と云いますが、知識・理性を超越した絶対的、哲学的、霊性的なもので、高度な表現です。

 天風先生は信念のない人生は、「羅針盤のないボロ船が、長途の航海に出るようなものであると云われております。信念を持たない人間は哀れで、第一人間としての使命である進化・向上と云う責務を発揮することが出来ない」と申されます。

 天風先生は続けて云われます。「どんな良い真理を聞いても又人生如何に活きるべきかと云う良い教えに接しても、信念の無い人は只急行列車に乗って、窓の外の景色をパット見たのと同じような結果になる。あゝ良い景色だなと思っている間にスッーと消え去るものである。」と信念の大切を述べておられます。

 信念を煥発する第一の手段は、心身統一法の講習会で教わる観念要素更改法の自己暗示法です。

 信念に生きるには、まず真理に対して常に純心で疑うことなく、暗示に罹り易い催眠時即ち夜の寝がけに鏡に向って、二人称で真剣に、小声を出して「お前!(あなた)信念強くなる!」と命令します。それから床に入って、思えば思う程明るく、朗らかに、生き生きと積極的なことを連想して寝てしまえば良いのです。そして朝覚ざめた時 鏡は使わずに、一人称で「俺は(私は)信念強い!」と現状に関係なく、繰り返し断定暗示を掛けることです。日中は折ある時に時ある毎に「俺は信念が強いのだ」と念押しすることが大切です。実践に当っては、情熱と意欲をもって行わなくてはなりません。そのうち除々に自信がついてきます。自信が反覆されると習慣化され、断固不抜の信念が築かれます。

 そして、信念についての天風先生のお悟りである「信念の誦句」を繰り返し、繰り返し唱和することです。すると潜在意識が積極化され、動かざること山の如き盤石の信念が確立できるのです。

 

  信念の誦句

信念 それは人生を動かす羅針盤の如き尊いものである。

従って 信念なき人生は、丁度長途の航海の出来ないボロ船の様なものである。かるが故に 私は真理に対してはいつも純真な気持で信じよう。

否 信ずることに努力しよう。

もしも疑うて居る様な心もちが少しでもあるならば、それは私の人生を汚がそうとする悪魔が、魔の手を延ばして 私の人生の土台石を盗もうとして居るのだと、気をつけよう。

天風会の合言葉「力だ!勇気だ!信念だ!」は、自分に内在する命の力を自己認証し、勇気を煥発して、信念を確立しよう」と云うことだと私は思います。

命の力を絶対的に積極化するのに必要な信念を自分のものにする方法を、難行苦行しなくて、いとも簡単に天風先生は私達にお教え下さいました。天風先生に感謝の誠を捧げると共に不断の実践を固く決意いたしましょう。

 

 


「宇宙真理とは」 木曜行修会  服部嘉夫

                          2018524

1.真理とは何か

まず真理の国文学的解釈から申しますと、真理の真は まこと、真実、「本当の」ということです。

理は大理石の理で、筋道、道理、道筋ということで、真理とは「本当の理論、道筋」ということになります。

天風先生は「本来人間は改めて、真理をいろいろ説き、聞かされるまでもなく、この世に生まれでた時から、絶えず、真理に接し、真理の中で生きているのである」と申されています。

丁度、魚が水の中で生きていながら、それを知らないのと同じで、人間は真理の中にいながら、この真理をなかなか自覚できない。私達が真理と共に活きていながら、それを発見出来ないのは、頭の上から帽子を被されているように、心が雑念、妄念に覆い被さっているからであると天風先生は云われます。

天風会で教わる安定打坐法を行い、雑念、妄念が除去され、本心が煥発された時に真理を悟ることが出来るのです。

真理を探究する人間の営みの学問は哲学と科学があります。哲学は原理を追求し、科学は法則を見極めます。

真理を哲学的に解釈すると、「何時でも、何処でも、誰れもが(うなず)く妥当性なものであり、普遍性、真実性をもった道筋、道理であるということです。

天風先生がヒマラヤ カンチェンジェンガの麓、昼なお暗き密林の中でご修行中、師匠であるカリアッパ師から戴く、宇宙、生命、人間、人生に関する重要な事柄の命題(禅で云う公案)を静かに瞑想して、その答をカリアッパ師に認められた真理の悟りのエッセンスが暗示誦句集です。

黒表紙の誦句集の最後に「修道大悟の誦句」があります。

その誦句の冒頭に「そもさん吾等かりそめにも天地の因縁に恵まれて、万物の霊長たる人間としてこの大宇宙の中に生れし以上、先ず第一に知らねばならぬことは、人生に絡まり存在する幽玄微妙なる宇宙真理なり。・・・云々」とあります。

 

2.大いなる悟り

 天風先生の第一悟りは「あゝそうだ!!吾が生命は宇宙霊の生命と通じて居る。・・・」(大偈の辞)であります。

 それは「宇宙の実相と自己の根源や如何に?」と云う命題に対する答えでした。

私が今ここに居ると云う事は、父母が居たからであり、その父母の両親即ち祖父母が居て、一世代を35年として、一億回(さかのぼ)ると地球はアメーバの時代になります。即ち35億年前から私となる要素があり、私の命は生きて生きて、延々と活き続いてきたのです。「無から有は生じません」ですから私の命の長さは35億年プラス現在の戸籍の年齢であると云っても過言ではありません。

 その命の要素である何ものか見えざる実在を一般的に大自然、大生命、造物主、根本主体、神、仏と呼ばれています。

 天風先生はその見えざる実在のもつ霊妙で素晴しい働らきを讃美して、宇宙霊を称されました。

 

3.宇宙の創造

 宇宙霊は、巨大な力、計り知れざる叡智を有し、厳粛な法則をもって、絶妙な創造活動を営み、万物を進化向上させ、一切を大調和あらしめようとする働きをもつ実在です。私達個生命は大生命である宇宙霊より生じたもので、宇宙霊の分派、分流であると天風先生は断言します。自然から分れたのが自分です。宇宙霊と私は同根と云うことです。

 自分はこの世で単なる一人でなく、私の背後には慈愛を持って私を生かしたもう宇宙霊のいることを自覚しなければなりません。糸の切れた凧は凧ではなく、一枚の紙切れです。凧と私が糸でしっかり繋がって一体であるということです。

 

 4.宇宙霊の働らき

 宇宙霊は一切の現象の背後にあって現象を動かしている重大な働きを為しています。新陳代謝を手段として人生を支配する二つの作用があります。一つは、一つのものを造り上げてゆく結合と建設の働きであります。二つは元のエネルギーに戻す分解と還元の働きです。例えて云うと、柿の木は春が来ると芽を出して葉が育ちます。葉では根から吸い上げたH2Oと大気中の二酸化炭素CO2と太陽エネルギーで光合成が行われ、含水炭素と糖質を造ります。花が咲き雌蕊(めしべ)()(しべ)が受粉し、秋になると柿の実が実ります。これを結合と建設の働きと云います。晩秋葉は錦に輝き、栄養分は枝に返して、葉は枯れ落ちます。落ちた葉は腐りH2OCO2に分解されます。成長・開花・結実は結合と建設の働きであり、葉が落ち腐って元の要素に分解と還元されます。この二つの作用は、相反し矛盾しているように見えますが、双方が相()って、協力し合って柿の木は年々大きく成長して行くのです。

 

仏教では、結合と建設を(しょう)のはたらきと云い、その逆の分解と還元のはたらきを(めつ)の働らきといいます。人間で云うと男女が年頃になると愛がめざめ、結婚し精子と卵子が結合して、細胞分裂で行われ、10()(つき)10(とう)()経ち、1ケ細胞から2兆個の細胞として、赤ちゃんが誕生します。幼児から少年、青年、壮年になり、8090才になり宇宙霊の働らきにより分解と還元の働らきが来たら感謝して天地の大霊(宇宙霊)に帰して行けば良いのです。


「教外別伝」 木曜行修会  服部嘉夫

                         2018426

 

 

 この言葉は「きょうげべつでん」と呼び、臨済宗で用ちいられています。仏法は経典によって伝えるものでなく、師から弟子へ、心から心へ体験と実践を通じてのみ、伝えられると云うことです。

 天風先生がインドのカンチェンジェンガの麓、ヨガの里で、ご修行された際、昼なお暗き密林の中で、猛獣毒蛇に襲われない身体の持ち方(体勢)を身に付ける方法であるクンバハカ密法も、臨済宗と同じように、書伝、口伝は許されませんでした。もし、その規則を破ると、教えた者も、教えられた者も天罰が当ると云われています。

 天風先生は、夏でもヒマラヤから流れてくる冷たい川の中で、腰まで浸かる座禅行をして、クンバハカ密法を体得しました。

 真理の教えは自から難行苦行をして悟れと云われます。

 私達は幸いにも、実際方法として、神経反射調節法として教わっています。要は実践あるのみです。実践実行に励みましょう。

 

 


「一日不作 一日不食」 木曜行修会  服部嘉夫

                         2018412

 

 この言葉は「一日(いちじつ)()さざれば、一日(いちじつ)(くら)わず」と読みます。中国唐代の高僧であった 百丈(ひゃくじょう)()(かい)禅師の言葉です。

 禅宗は坐禅行ばかりでなく、日常の生活行事としての()()仕事があります。百丈禅師が80歳を過ぎても、弟子達に先立って、作務をしていたので、弟子達は師を案じて、作務を休まれるよう進言しましたが、一向に止めません。そこで弟子達は百丈禅師の作務の道具を隠したところ、作務はやめましたが、食事はとりませんでした。その訳を伺うと「一日不作、一日不食」と云ったと云うことです。

 一日作務(仕事)をしなかったから、一日食はない」と云うことですが、一般的に云う「働かざる者は食うべからず」と云うことではありません。

 世間で云う「生きる(食う)ために働く」のではなく、人間は「働くために生きる」のです。これが真理です。

 この世に生きるのに、自分一人で生きていかれません。「箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人してまた草鞋(わらじ)を作る人」と云って、世の中は「持ちつ持たれず」です。自分の身の廻りの品々は、人様にお世話になったものばかりです。だがしかし、「一つだけは私に任せて下さい」と云うのが職業(仕事・天職)です。人の世のため役立つ即ち(はた)を楽にさせるから 働くと云うのです。

 百丈禅師は、働くことが出来ないから「食うべからず」ではなく、人様に申し訳なく、「食べられない」と云ったのです。

 

 私達も創造的職業観をもって、人の世のために役立つ自己を完成することに努力しましょう。


「一無位真人」 木曜行修会  服部嘉夫

 

 

                          2018322

 

 

 

この語は「いちむいのしんじん」と読みます。臨済禅師の言葉です。「一」は数量ではなく、普遍と絶対を高める意味です。

「無位」は位置、階級がないと云うのではなく、座禅で云う「いつも、どこにもある」と云うことです。

「真人」は臨済宗では「(ほとけ)のことを云います。

「一無位真人」の意味は、私達の身体には 時間と空間を超えた真実の人間(神・仏・宇宙霊・主人公)が常に存在していると云うことです。

天風会で云えば「吾が生命は宇宙霊の生命と通じて居る」

「吾が生命は 宇宙霊と一体である」と云うことです。

その「見えざる実在」を感知するには 座禅せよと云われます。

臨済宗では、座禅をして「おん身らよ、いつどこにもあって、常におん身らの中に眠っている もう一人の自分(ほとけ)にめざめよ」と云われています。もう一人の自分は、人間の心の奥底にあって 最も純粋な穢れのない清らかな人間の本当の心です。天風会では、本心・良心と云います。

 

この心を 発現するには安定打坐法を厳修することです。


「本来面目」 木曜行修会  服部嘉夫

 

 

                           201838

 

 

 

「本来面目」とは、本来の自己・真実の自己・最も純粋な穢れのない、清らかな、人間の本来の心をもった、自分の中のもう一人の自己を云います。

 「もう一人の自己」とは、28日木曜行修会で勉強した「主人公」と同じものです。

 天風会的に云いますと、私の背後には、慈愛をもって私を生かしたもう宇宙霊(主人公)のいることを自覚しなければいけないと云う事です。

 宇宙霊の心を霊性心と云います。

 人間本来の面目は霊性心を発揮することです。

 霊性心は人間の心の進化過程で最高の心です。

 人間を活かす肉性心(本能心)と理性心も大切ですが、それらより最も大切なのは霊性心です。

 

 霊性心を煥発するには安定打坐法を厳修することです。実践、実行に勤めましょう。


「見性成仏」  木曜行修会  服部嘉夫

                        2018222

 

 

 「見性成仏」とは口語辞典によると、「自分の本性をみつめることが出来れば、すでに仏と同じ悟りを開いたものである」ということです。白隠禅師の師である至道無難禅師は、「一切の経は仏のおしえなり、坐禅は(じき)なりけり」と云われ、坐禅の公案を「常にも思わぬは仏の稽古なり」(上求菩提)と云われています。

 人間が人間の本性(本心)を見え出した時、人間は成仏すると云う訳です。坐禅行の目的は仏性に成ることです。ゆえに成仏とは「人間が本当の人間に成る」と云うことです。

 天風先生は、安定打坐法を別名天風式坐禅法と云うと申されます。安定打坐法を行じて、雑念、邪心が消えて、無念、無心になり、本心(仏性心・霊性心)が煥発されます。本心とは人間の心の奥底にあり、最も純粋な、穢れのない、清らかな人間の本当の心です。

 天風先生は「何事をするにも安定打坐」と申されます。本心が煥発された境地で日常生活何事も行えと云う事です。

 

 禅宗でも「何も思わぬところから何もかもするがよい」(下化衆生)と云われています。

 


「主人公」  木曜行修会  服部嘉夫

                        201828

 

 私は私、私は主人公であることは間違いないことです。

 しかし本来私には、もう一人の主人公がいるのです。

 私の心は私を生かす本能心(動物心)とより良く生かす理性心があります。これらの心も必要ですが、もっと大切な心を、人間は誰れしもが持っているのです。その心を天風先生は霊性心と云われます。

 霊とは幽霊とか人魂とか云うものでなく、最も霊妙な素晴らしいと云う事です。

 人間の心の奥底にあり、最も純粋で、(まぎ)れない清らかな、創造主、神仏、宇宙霊の心と云うべき心を持っています。

 これを本心と云い、道徳的に展開されると良心と云います。

 天風先生は「私の背後には慈愛を持って、私を生かしたもう宇宙霊のいることを自覚しなければいけない」と云われます。

 

 今は雑念、妄念によりその心は陰を密めていますが、安定打坐法(天風式坐禅法)を行ずることにより、本心は煥発されます。日頃()まず、たゆまず安定打坐法の実践に務めましょう。


「夢」   木曜行修会   服部嘉夫

                        2018111

 

 

 一般的には「睡眠中にもつ幻覚」と云われます。 

 目覚めれば、はかなく消えて、すぐ忘れるのが夢です。

 一度限りの人生は、まるで夢のようなものです。

 だから、この人生を尊く価値高く活き抜かねばなりません。

 夢には見た通りのことが現実となる正夢と実際とは反対の事を見る逆夢があります。

 いずれも、空想的な願望でなく将来実現したい願い、高潔なる理想を夢の中で描きたいものです。

 それには日頃の心身統一法の実践が必要です。

 私は夢を見ながら心身統一法の講演をした夢を見ました。

 正月元旦の夜(一説には2日の夜)に見る夢を初夢といいます。めでたい夢は「一富士 二鷹 三なすび」と云われます。皆さんは正月にどんな夢を見ましたか?

 


「水到渠成」  木曜行修会  服部嘉夫

                        20171214

 

 この言葉は中国の古詩から禅語として引用されたもので「水(いた)れば(みぞ)成る」と読みます。

 山に降った雨の一滴の水がまとまり溝となり谷川になり、里を流れる川となり、平野を流れる河となり大海に注ぎます。

 広島地方に台風が通過し、水圧で山が崩れ、里に濁流が流れ、民家が押し流される事件がありました。

 雨水と云えども集中豪雨となると偉大な力となるものです。

 天風先生が昭和43年(1968年)1019日の最終の講演「いつまでも若々しく活きよう」の中で「点滴巌をも穿(うが)つ」と述べられました。その言葉と同意語と思われます。

 一滴一滴と石の上に落ちる雨だれもいつかはそこに穴があくと云う事です。

 

 先生がインドのヨガの里で3年間難行苦行して、心を造り変えたことを、日本に帰り科学的、合理的な実際方法である心身統一法を造り上げるのに6年間の月日がかかったと云われます。それも「窮すれば通ず」と云う事で、条件付反射の暗示作用を応用した連鎖反応によってインスピレーションが涌いてきたからと云われています。


 

「破草鞋」  木曜行修会   服部嘉夫

 

                        20171130

 

 

 

 この文字は「はそうあい」と読みます。草鞋はわらじのことで破れた草鞋のことです。草鞋を永く使うと壊れ履けなくなり不用です。禅の修行の初めは、知識は不用(破草鞋)です。

 

 中村天風先生が縁あって、エジプトのカイロで聖者カリアッパ師に巡り合い、インドのカンチンジェンガの麓にあるヨガの修行場に着いて、何日たってもカリアッパ師が、何も教えてくれないので天風先生は、カリアッパ師に催促しました。するとカリアッパ師は「コップの水を空にしろ」と云われました。天風先生はコロンビア大学医学部で学んだ基礎医学が身について、カリアッパ師から見ると、それ以上教えるのは無理と思われたのでしょう。

 

 天風先生は、それから無になる修行をし、それが認められ、カリアッパ師より真理の教えを受け、実践することで心身が甦りました。

 

 その後天風先生が帰国して、心身統一法を創見される時、インドで修行した体験をもとにして、その上医学も考慮されたと云われています。ですから、心身統一法は現代でも医学的にみても正しいと云われる所以です。

 


 

「日々是好日」  木曜行修会  服部嘉夫

 

                        20171026

 

 

 

 中国の唐代の僧 雲門文偃(ぶんえん)が弟子に向って「今から15日以後の自分の心境を一言で云ってみよ」と問いかけました。誰も即答できなかった時、雲門は自から「日々是好日」と答えたと云われています。

 

 毎日が平穏無事な日々であるような吉日になればいいと云うことではありません。人生において今日と云う日は二度と戻りません。

 

 たとえ雨が降ろうが、健康が勝れず、運命に非なるものがあっても、私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍だと、勇ましく溌剌と今日一日を元気で過すべきです。

 

 天風先生は「縁起をかづいたり、大安・仏滅を気にするな」と厳しく申されました。「迷えば三界の城、悟れば十方空、本来東西なし 何処にか南北あらん」と述べ、迷信を強く反対されました。

 

 大安吉日に結婚して、海外へ新婚旅行に行って、成田に帰り、「成田離婚」する人が多いようです。大安吉日がよいとは限りません。

 

 天風先生は「日にちに好い悪いがあるものか」その日その日を明るく朗らかに生き生きと勇ましく活きるべきである」と云われます。

 

 「事あるも事無き日と同じく晴れて良し雲りて良し富士の山」の心境で一日一日を大切に活きましょう。


 

「身心脱落」  木曜行修会  服部嘉夫

 

                        20171012

 

 

 

 道元禅師が中国の宋に渡り、師である如淨のもとで坐禅を修行して得た時の言葉です。

 

 天風会では「心身統一法」と心を先に置いて表わしますが、曹洞宗の坐禅では「身心脱落」と身を前に置いています。

 

天風先生は「人生は心一つの置きどころ」と云われ、心を先に置いていますが、道元は坐禅をする時、まず身体の力を抜き心身ともに一切の執着を放下せよと云われます。

 

朝起きて、養動法や身体をストレッチすると、心身が軽やかになります。

 

雑布を水で洗い、絞って広げて、床に投げた状態。

 

何も考えず、あらゆる束縛から解き放された状態になります。身も心も澄みきった境地が「身心脱落」です。

 

安定打坐の境地と同じです。

 

一日ほんのわずかでも安定打坐法を行って、心身ともに甦みがえりましょう。

 


「滅却心頭火自涼」 木曜行修会  服部嘉夫

                           2017928

この文字は「しんとうをめっきゃくすればひおのずからすずし」と読みます。

 山梨県にある恵林寺の山門の左側に掲げてあります。その山門の右側には「安禅不必須山水」とあります。戦国時代、織田信長の軍勢に焼討された恵林寺の住職(かい)(せん)紹喜(じょうき)は「安禅は必ずしも山水を(もち)いず、心頭を滅却すれば火自ら涼し」と唱え、焼け行く山門の炎に身を投じたと云われています。

 心頭を滅却するとは、脳細胞を破壊することではなく、強い意思によって感覚をコントロールすることです。天風会的に解釈すると「安定打坐をするのに深山幽谷に行かなくても、感覚を統御すれば、何処でも雑念・妄念を除去できると云うことです。

 天風先生は、感覚を統御する制感の要領を「心をば、虚空の外に置きかえて、五感気にすな、打坐の妙法」と云われています。安定打坐法の極意です。意識を大宇宙の彼方に振り向けて、五(感)官にふれる刺激を気にしないようにせよと云うことです。五官に入ってくる刺激は、そのままそのまま 刺激は物理的刺激のままにして、意識せず感覚をコントロールすることです。

 感覚の統御は、私達も日常生活に中で行っています。冬のミニスカートも、格好がよければ寒さも感じません。社長さんもゴルフバックを担ぎ、若者は恋人の重い荷物を軽々と持つものです。

 天風先生は、安定打坐法を実施する際の要領を次の句で教示しています。

  「気に入らぬ風もあろうに川柳」

 大川端の柳の木は、南から北へ風が吹くと柳の葉は南から北へなびきます。北から南の風が吹くと、柳の葉は北から南になびきます。刺激に対して抵抗せず、こだわらず、そのままそのまま風に吹かれています。刺激に対して気にしないと云って眠ってしまってはいけません。飽く迄、意識明瞭にして自己の主体性は、しっかりと確保しなければなりません。その状態を、天風先生は句を続けて

  「根を()えて、風にまかせ柳かな」

 

と云われ、柳の木は大川端の土手に根をしっかりと張っているのです。


「歩歩是道場」 木曜行修会   服部嘉夫

                        201797

 

 

 「ほぼこれどうじょう」と読みます。禅の言葉ですが、修行は道場だけでするものではなく、日々の生活の中で教えを実践しなくてはならないという意味です。生きているすべての瞬間が修行の場なのです。

 天風教義は日常生活道です。天風哲人箴言注釈 叡智のひびき箴言10に「天風教義は是を修行として行ったのではおよそ第二義となる、只一念それを生活行事として行う時完全に第一義的のものとなる」と記されています。

 ご解説の中で、ある会員に「あなたは天風教義を実践していないようだな」と云うと、その人は「先生何故分かるのですか」と尋ねると、先生は即座に「目を見れば分かる、目の輝きがない」と申されました。その人は「商売が忙しくて、つい実行を忘れていました」と答えると先生は「それは言い訳けであり教えは日常生活の中で、プラナヤマ法でもクンバハカ法でも何んでもできる」と厳しく戒しめられました。半年過ぎて、その会員が天風先生にお逢いすると、先生はその人が立派に教えを実践していることを認めたと述べられています。

 行き帰りの通勤電車の中で、吊り革にぶらさがり立った養動法ができ座席に坐ることができたら安定打坐法もできます。その他日常生活の中で「三勿三行」、「感謝一念」等も実行しましょう。

 

 


「時」 木曜行修会      服部嘉夫

                        2017824

 

 

 「歳月人を待たず」とか「光陰矢のごとし」の諺のように「今と云う間に今はなし」と時は流れて行きます。現在という時は絶えず流れ移り、未来から過去の中へと移り込まれていきます。私達が「時」を確実に掴むことができるのは、現在という時点です。時の流れの中で只今現在のこの瞬間を大事に活きることが大切です。

 天風哲人新箴言注釈「真理のひびき」箴言16に「時は金なりという諺があるが、真実に於いて時は金よりも貴重な尊さがある」と述べられています。金は失っても取り返すことが出来ますが、時は一旦失ったら永遠に戻ってきません。

 心身統一法の感応性能を積極化する方法の一つに積極観念養成法があります。5項目の中1つに取越苦労厳禁があります。その中で「心は現在を要す、過ぎたるは(おう)うべからず、来たざるは(むこ)うべからず」教えられています。古歌にも「さしあたる、その事のみをただ思え、過去は及ばず未来知られず」とあります。

 

 天風会4代会長杉山彦一先生は「時は金なり」というより「時は生命(いのち)なり」と云われました。不可思議な縁でこの世に生れてきた生命(いのち)1回限りです。その生命(いのち)を価値高く、尊く活かして、生き甲斐生れ甲斐いある人生を築かねばなりません。それには心身統一法を実践することです。実践・実行に務めましょう。


(めい)()(すい)(ぶつ)」 木曜行修会     服部嘉夫

                        2017727

 

 「これは「己に迷って物を()」と読みます。意味は「何事をする時は、先立って行って、自分を見失ってはいけない」と云う戒めの言葉です。「物事を行う時には、自分を忘れて行いなさい」と云う事です。自分を忘れるとは、人生を生きて行くのに、物や金、地位、名誉等の私欲にとらわれず、雑念、妄念を捨てた状態で、何事も行いなさいと云う事です。

 天風先生は「忘己観物」と云われます。そして続いて「忘物観道」と加えています。物事をするには、真理に従って行えと云う事です。「忘己観物、忘物観道」とは自分を忘れて物を見たら、今度は物を忘れて道(真理)を見なさいと云う事です。

 「忘己観物、忘物観道」は、中村天風述「盛大な人生」の第五章大事貫徹「十牛図」演繹(えんえき)の中の第七図「忘牛存人」の項に示めされています。「十牛図」とは、今から八〇〇年前(釈迦誕生一、二〇〇年後)中国の常徳府の梁山(りょうざん)にいた(かく)(あん)()(おん)の作と云われています。禅宗の教えの修行の段階を一人の牧童と牛を用いての画で示しています。牛は禅では、会得すべき「本然の自性」で統一道では「自我の本質(霊性心)」を譬えています。

 

 この十段階の内第七番目「(ぼう)(ぎゅう)(そん)(にん)」は、牛がいないで牧童のみがいる絵です。修行が進んで雑念妄念がとれて、純一無雑の境涯になったところです。牛はいなくても、修行をしようと思わなくても、三昧の境地に没入し真実の人生を活きている状態です。この状態をに譬えて「よしあしとわたる人こそはかなけれ、ひとつなにわのあしと知らずや」又古歌に「忘れじと覚えしうちは忘れけり、忘れて後が忘れざりけり」とあります。


「知足」 木曜行修会     服部嘉夫

                        2017713

 

 この文字は「ちそく」と読み、「足ることを知る」と云う意味です。京都の石庭で有名な龍安寺の中庭にある石のつくばい(手水(ちょうず)(ばち))に「吾唯足知」と書いてあります

 天風教義の心身統一法の中で、感応性能を積極化する三つの方法の一つ観念要素更改法の附帯要項の中で「感謝の生活と三行」があります。

 天風先生は「たとえ唯今、病に罹っても、運命が悪るくても不平不満を云わずに、今、活きていることに感謝せよ」と云われます。

 一般の人々は物質本位に生きており、満ち足りると云う満足感がなく、何時も五欲(財・色・食・名誉・睡眠)を満すことばかりを考えています。

 昔から「思うこと一つ叶えばまた二つ、三つ四つ五つ難しの世や」と云われ、他の人と比較するから不平不満がおこるのです。他人との比較は「隣りの芝生」の諺のように上を見れば、キリがなく、下を見ればキリがありません。

 現在唯今を感謝して生きることが大切です。

 日常生活において、self control するには、意志の力を強くしなければなりません。それには安定打坐法を行い、霊性心を発揮することです。

 

 天風箴言(叡智のひびき)8に「不平不満を口にする事を(はず)かしい事だと気がつく様になったら、(すく)なくとも自己制御(self control)が出来てきた証拠である」とあります。安定打坐法の実践に努めましょう。


 

「随処作主」 木曜行修会     服部嘉夫

 

                        2017622

 

 

 

 「随処に主と()れば、立処皆真なり」とは、臨済宗を創始した臨済禅師の言葉と云われています。「随処作主」の意味は、どこでも自分が主役やリーダーになると云うことではなく、常に真実の自己を見失うなと云うことです。

 

 私達は外界からの過剰な刺激、情報により、心は常に雑念、邪心になり多念多心です。どんなところでも環境、境遇などに左右されずに主体性を保つと云うブレない真の自分を作るには、どうすれば良いのでしょうか。それはずばり、天風会で教えられる安定打坐法です。

 

 安定打坐法は、天風会の三大密法の一つです。密法とは隠された教えと云うことではなく、最も大切な教えと云うことです。安定打坐法は、天風式座禅法とも云われ、その目的は多念、多心の心を無念、無心にする方法です。無念とは雑念のない心であり、無心とは邪心のない心です。それでは何があるかと云うと、人間の本当の心である誠の心、本心(道徳的に展開されると良心と云う)天風会で云う霊性心が煥発されます。多念多心の心を一気に無念無心の心にするにはなかなか困難です。中村天風著「安定打坐考抄」にもあるように、それは高い塔の上で、地上の人にここまで登ってこいと云うように無理なことです。しかし天風先生は梯子を架ければ容易にできると申されます。古来より先人覚者は、多念多心の心を一念一心にする無我一念法を試みました。視覚法、唱誦法、呼吸法、想観法、祈念法、座禅法、等です。天風先生はこの中の聴覚を用いて、単的に的確に安定打坐の境地になる方法を創見されました。これが電動器を用いるブザー方式です。ブザーの音は、かなり多きく鼓膜一杯に鳴り響きます。だから誰しも他の事は考えず、音だけを一心に聴き入ることができます。音が切れた瞬間、静寂な静かな境地(天風先生はトランスの状態と云われる)を味わうことができます。その状態が無念無想の心即ち三昧境地です。

 

 臨済宗の公案にも「常に何も思わぬは佛の稽古なり、何も思わぬところから何もかもすれば良い」とあります。天風先生も「何事をするにも安定打坐」と云われています。天風先生は真理のひびき箴言九で「安定打坐法は正当なる思慮と断定とを生み出す絶対的密法であるから、其心して践行に努力すべし」とあります。日常の生活の中で、安定打坐法の実習に努めましょう。

 

 

「莫妄想」 木曜行修会      服部嘉夫

 

                        201768

 

 

 

 中国唐の時代に無業(むごう)禅師は、誰に対しても「(まく)妄想(もうそう)」と唱えたと云われています。莫妄想とは、妄想することを(なか)れと云う意味です。現実からかけ離れた空想や夢想をしたり、考えても仕方のないことを、あれこれ思い悩むことをしないで、過去や未来を思い悩まず、今に集中せよと云う事です。

 

 東洋の哲人中村天風先生は、人間が積極的に活きる方法として、感応性能を積極化せよと云われ、三つの方法即ち観念要素更改法、積極観念養成法そして神経反射調節法の三つの方法を教示されます。その中の一つ実在意識から積極化する方法の積極観念養成法は、五つの項目があります。(1)内省検討 (2)暗示の分析 (3)対人精神態度 (4)取越苦労厳禁 (5)正義の実行です。

 

 この中の取越苦労厳禁が「莫妄想」です。苦労は無駄な心の使い方です。今自分が思っていることが消極的な心の使い方としているが、厳重に検討しなくてはなりません。苦労には三種類あります。過去苦労、現在苦労、未来苦労です。三番目の未来苦労が取越苦労です。株価がこんなに下るなら早く高い内に売っておけば良かったと過去にだけ心が向いている人は進歩も発展もありません。街を歩いている時、消防自動車を見ると、外出時に火の始末をしてきたか心配する人がいます。只今現在何時もくよくよと心配し苦労している人は、見る物聞くことが全て苦労の種、心配の材料となり、現在を有意義に過すことは出来ません。将来のことについて、あれこれと無用の心配をすることを未来苦労と云い、これが取越苦労のことです。昔杞の国に三人の人がいました。一人は天をじっと眺めて、天が何時落ちてくるか心配で見つめていました。もう一人の人は下をじっと眺めて、地が何時崩れるか心配で見ていました。三人目の人は、天を見ている人と地を見ている人の両方見つめていたと云われます。これを杞の国の三友と云い杞人の憂い(杞憂)と云われています。「あゝなるとこうなり、こうするとあゝなって、これはいけないもうだめだ」と消極的で悲観的な思考でいくら考えても創造的、建設的な考えがでてきません。心は現在只今のことに対して、明瞭な意識で集中して使わなければなりません。昔の故事に「過ぎたるは追うべからず、来たざれは向うべからず、心は常に現在を要す」とあります。

 

5/25木曜行修会 「残心」

                                服部嘉夫先生投稿

 「残心」という語は、真剣抜刀術の用語です。

 天風先生は九州柳川藩に伝わる随変流抜刀術の名手でした。

 抜刀術を稽古する際「最初から最後まで、一貫せる心構えを忘るる勿れ」と戒める言葉です。

 格言にも、「終りを慎むこと始めの如くあるべし」とあります。

 天風先生が「残心」の言葉をお使いになっているのは、修練会後の心掛として、先生のご著書「哲人哲語」の中で「残心偈」「再叙残心偈」「三叙残心偈」と3回に亘り、厳しく(いまし)められています。

 修練会に参加し、生命力が充実したことを実感し、大いに感動することは素晴しい事ですが、一瞬の感動、感激はすぐ消えるものです。この感動を持続させることが、もっと素晴しいことです。

 修練会で熱心に修行し、悟ったと思っても「これおしも悟の峰と思いなば、迷いに下る始めなりけり」と云われ、すぐに、元の木阿弥になってしまいます。

 

 「継続は力なり」と云われるように、修練会の間だけの実行じゃ駄目で、どんな場合でも、一意専心、(びん)勉努力実践躬行ということを忘れず、天風先生は 毎週一度の日曜行修会への参加をお勧めになりました。

 時あたかも「三叙残心偈」をお書きになられた昭和309月より天風先生の命により、第4代会長になられた杉山彦一先生が恵比寿の日曜行修会でご指導されました。これが現在の東京の会の日曜行修会の草分けです。

 

 

 後にいわき賛助会で「心身統一法の研修会」が東京の夏期修練会が終った九月の初に行われましたが、23日の研修会が終わり、最終日帰宅して、お礼のため当時の平野代表にお電話すると、「私も今「残心会」をやって帰宅したところです」と返事が返って来ます。これは慰労会の一杯会であって、「残心」ではありません。しかしいわきの会員が心を一つにして、研修会の盛会にあたって、今後のいわき賛助会の発展のため盛り上がった「反省会」なら結構のことだと思います。 


 5/11木曜行修会 「依頼心を捨てる」 

                                     服部嘉夫先生投稿

  

釈迦が亡くなる間際、弟子が「師が亡くなられた後は何を頼りに生きたらいいのでしょうか」と尋ねた時、釈迦が云った言葉が「自灯明(じとうみょう)(ほう)灯明(とうみょう)(みずか)らを灯明(ひかり)とせよ、(おしえ)灯明(ひかり)とせよ)」です。

 

このことは配布の資料でお解りのように、夜道を歩いていて足元が真っ暗になったら、進むのをやめるか?それとも後退りするか、どうすれば良いかと云う事です。

 

暗いと云って不平不満を云うよりも進んで明かりをつければ良いのです。その時は自分自身が灯明(自灯明)だと信じて前に進めば良いのです。自分の灯明こそ「信念」です。もし道を間違えたり、失敗したり、自信がなければ、他に頼ると云う依頼心を捨てて法に従え(法灯明)と云う事です。

 

釈迦が云った言葉に「如来は香華を持って供養を受けず、法を行ずることが供養である」とあります。天風先生もご生前「天風死すとも法は残る」と申しておられました。

 

先生ご存命中、会員の実業家が先生にご相談されました。どんな相談かと云うと「現在の事業を拡大して、上手くいくかどうか」と云う事です。そのとき先生は咄嗟に「お前はどう思う」と逆に尋ねられました。その実業家は「自分は時期尚早と思いますが」と云うと先生は即座に「ではやめろ」と云われました。天風先生は易者に頼る運命判断を著しく嫌いました。

 

自分の運命の責任者は自分です。天風先生はよく云われます「自己を作るものは自己なり」と。自分の運命が自分以外のところで勝手に作られては困ります。「天は自ら助くる者を助く」と福沢諭吉も云っています。

 

「あの人は運が良い」と云われる人は、判断力が優れているからです。

  判断力を養うのは「お前信念が強くなる」と云う、観念要素の更改法と安定打坐法です。

  資料の末尾に記されてありますように、禅者は「坐る(安定打坐)」ことによって、この自灯明を自分の心身に感得できるのです。

 

一に実行、二に実行、天風教義の実践に努めてまいりましょう。


「迸り出でようと待ち構えて居る」2017年3月9日 木曜行修会 服部嘉夫先生

この言葉は、皆様ご承知の運命の誦句にある言葉です。

天風先生は、運命を天命と宿命に分けています。

天命は既に天より定められた運命を云います。

私が、日本で、昭和の時代、服部家の長男として生まれたこと。

これはどうしても変えることは出来ないことで天命には安住せよ。

「運が悪く風邪を引いた」とか「受験に失敗したのは運が悪かった」のではなく、注意を怠ったり、努力が足らなかったのです。それを宿命と云います。

宿命は人間の力で、創意・工夫・努力して打開して行くことが可能な運命です。「人事を尽くして天命を待つ」

「運は寝て待て」ではなく「運は練って待て」

「棚から牡丹餅」「牡丹餅が載っている棚の下で口をあけて待っていろ」と云う事。

天風先生は宿命を打開するには、感謝と歓喜の感情をより多く持てと云われてます。

感謝と歓喜のようなプラスの感情は、宇宙霊の持つ偉大な力と計り知れない叡智を我が生命に導入する(かけい)ようなものと天風先生は言われます。

*筧=節を抜いた竹で水を通す(とい)のこと

宇宙霊は人間をより健康に、より幸福に、良い運命であるように待ち望み手を差し延べ、ようとしているのです。

天から与えられた水道の水は、水道管を通して、我が家に通じています。その水を飲むためには、水道の蛇口の栓を開かなければ、水は飲めません。その栓を開けるのは自分自身です。

運命とは命を運ぶと読みます。命を運ぶのはマル通でもなく、クロネコヤマトでもありません。自分自身です。

宇宙霊が我々誰にでも満遍なく与えようとしている恵みを受け入れるか否かは自分の意志の力によるものです。

自分の意志の力を充実し発揮せねばなりません。

それには統一道の実践が必要です。

 

天風教義を実践実行して、常に溌剌颯爽、何事にも私は喜びだ、感謝だ、笑いだ、雀躍(こおどり)だと、勇ましく溌剌と人生の一切に勇往邁進して行きましょう。