131.「十牛訓 第九 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)」

 「十牛訓 第九 返本還源」です。

 相対積極から絶対積極になったことを示しています。

「染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅(くれない)」修養もしつくして、本然に返るということ。悟って悟って悟りつくすと、ものの本然の世界に返ります。心身統一法のほうでいうと、霊性世界の生活が完全にできている人のことを言います。霊性世界の生活とは、人間そのものの本当の生き方となります。

 それにはまず、「恬淡明朗、溌剌颯爽」と最初の積極(相対積極)をする。これがもう自分のものになると何もいらない、絶対積極になります。

 絶対積極を「木の枝にとまった小さな鳥が、西行法師の肩にのりうつった。西行もまたそれをはらおうともしない。また、人生の出来事は何でも、突いてくる刀と同じように、「受けな、流すべし」で、相手にしないこと。そうすると、むこうのほうで自分でつまずいてよろけちまうだけなんだ。」と天風先生は説明されています。

消極に対する積極(相対積極)ではなく、その統合された次元の積極(絶対積極)は、本当に力が入らずに、自然と一体になっています。力を入れずに、自然体で生きたいと思いました。

 

色紙表

「十牛訓第九返本還源之頌辞

返本還源已費 功争如直下若 育聾庵中不 見庵前物水自 茫ヽ花自紅 

一千九百六十六年初冬 天風」

 

色紙裏

「註

本に返り源に還りて 巳に(爾)功を費す いかでか 若かん直下盲聾の如 くならんに(爾)は水は自然 に(爾)際限なく 花も自ら 紅いである 花押」

 

・以下、「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)

「第九図「返本還源(へんぽんげんげん)」。

 梅の花が咲いて、ふくいくとして、

 「染めいだす人はなけれど春来れば 柳は緑 花は紅(くれない)」

 「染めねども山は緑になりにけり おのがいろいろ花もなきなり」

 これは自然現象の表現の詩(うた)なんだけど、何をいったい暗示しているいかというと、修養もしつくして、本然に返るということ。悟って悟って悟りつくして、ものの本然の世界に返ったんだ。本然の世界とは、何の塵も汚れもない、清浄無垢の姿が本来の世界だよ。

 心身統一法のほうでいうと、霊性世界の生活が完全にできている人のことを言う。霊性世界の生活とは、人間そのものの本当の生き方なんです。

 惟信禅師がこういうことを言ってる。修行のできないときに山を見ると、山は山、花は花、水は水だ。けれど、修行が功徳をつんで、悟りの境に入ると、山も山に見えず、水は水に見えなくなるぞ。さらに悟りつくしていくと、何と清浄無垢の心をもってして見ても、やっぱり山は山だった。水は水だったと。

 心身統一法のほうでいうと、修養の中途においての方便として、執着、煩悶、あるいは病難とか運命難を人にありえぬもの、あらしめかざるものと否定しますね。いや、否定するべく積極性を養成させてる。

 しかし、さらに本当に心が積極的になっちまうと、もうそれを否定する必要はないんだよ。否定するもしないもないんです。心が絶対になっちゃってる。

 すべての人生の出来事も、自分の心にさわらせなかったら心は切れない。絶対的というのは、エイッエイッと押し返す力じゃないんだよ。

 積極には二色あった。「よっしゃあ、恬淡明朗、溌剌颯爽」――それが最初の積極。そいつがすっかり自分のものになっちまうと何にもいらないんだ。むこうからサーッときても、ヒョイと当たらないもん。

 

 人生の出来事は何でも、突いてくる刀と同じように、「受けな、流すべし」で、相手にしないこと。そうすると、むこうのほうで自分でつまずいてよろけちまうだけなんだ。」(「盛大なる人生」(第五章 大事貫徹 より)